3月11日になりました。 昨年の3月11日午後2時46分、東日本大震災の翌日から3日間の間に行われた岐阜、愛知での公演のことを振り返ります。 2時46分、関西の当オフィスは揺れを感じませんでした。
大変なことが起こったことを知ったのはTwitterでした。 すぐに東北や関東、また翌日からの公演の関係者に連絡をとりました。
幸い、アキラさんや平原まことさんとは、その日の夜までに連絡が取れました。
翌日からの平原さんによるクリニックや【アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ】、また【アキラ塾】が行なわれる岐阜、愛知は当時、地震の影響はほとんど無く、主催者の方々の判断により、公演は予定通り行なわれることになりました。
そこで、東京にいるアキラさん、平原さんに、名古屋へ移動することがまず第一の課題となりました。 当時、都内の交通が非常に混乱しており、新幹線も通常運行ではありませんでした。
翌日、先に平原さんが名古屋へ到着、新幹線はギュウギユウで、車両と車両の間のデッキに立って乗って来たそうです。会場の扶桑文化会館へ向かう車中、平原さんも慌ただしく周囲の方の安否を確認されていました。
扶桑文化会館での平原さんのクリニック、地元の中高生を中心とした受講生の皆さんは、ほぼ全員予定通りに出席されていて、いつものようにクリニックが始まりました。 熱心な受講生の皆さんに終了後も一時間弱囲まれていた平原さんと、名古屋へ戻りました。
最終に近い便でアキラさんが一人到着。名古屋駅のホームへ迎えに行きました。通常は宅配で送るツアー時の衣装は、輸送の乱れが予想されるので、手持ちとなっており、かなりの重量の荷物を携え降りて来ました。
とにもかくにも二人が無事に名古屋へ到着でき、ホッとしたことを覚えています。 しかし、この状況下で、いつもなら会場が爆笑の渦となるコーナーを、翌日いつも通り行うのが相応しいのか、答えは出ないまま眠りにつきました。
翌日の公演のゲネプロでは、普段のように音のバランスを確かめるよりも、この状況で聴きに来られるお客様に、自分たちの音楽はどう聴こえるのかといったことが話し合われました。
その結果、一部曲順を変更しました。オープニングの部分です。この変更には、恐らく緊張状態にあるお客様へ、静かな曲から始めることで、徐々にコンサートへ気持ちを向けて頂けたらとの思いがありました。
オープニング曲の第一音が鳴った瞬間に、こわばっていた会場の空気が振動したように感じました。これはアキラさんもMCで話していましたね。実はこの日、一番緊張していたのは、お客様ではなく、ステージ上の二人だったでしょう…。
そうして、一部曲順を変更して、いつも通りに「ふたりのオーケストラ」を行いました。大変、大変暖かい拍手を頂き、心底、ホッとした表情で二人は袖に戻ってきました。
音楽が主体で、音に身を任せる時間が多い「ふたりのオーケストラ」に対して、トークの分量が多い、その翌日の「アキラ塾」には更なる課題がありました。
常日頃から「命」「自然」といった事柄をテーマに作品作りを行うことが多いアキラさんです。 コンサートで、その人の「素」の部分が見えやすいといわれるのは「MC」ですが、特に「アキラ塾」はトークの分量が多い演目です。この2日間、眼に耳に入る地震や津波のことに触れずにはいられません。 そのこと と、エンターテイナーとしてステージを務めることの間に大変な葛藤があったようでした。
この日の「アキラ塾」は、オープニングに客席の皆さんと、アキラさん、岡崎裕美さんの対話の時間を設けて、後は予定通りに「ウエスト•サイド•ストーリーの深読み」などを行いました。「まちがみんなをすきなんだ」は予定の曲目でした。
岐阜県各務原市での公演会場が、江戸時代から残る農村歌舞伎小屋「村国座」だったことが、とても偶然とは思えない一日でした。何百年も続く舞台と客席のもつ佇まいとパワー、そしてこの日のお客様に助けて頂きました。
この二回の公演は、スタッフとしてもこれまでにない経験でした。 音楽が人の心に働きかける作用は、ふだん目に見えませんが、この時には、見えたように思えます。
今日は様々な場所で、色々な形で震災から一年の取り組みが行われますね。 どうか、揺れませんように。祈りの一日となりますように。