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  • 直前集中掲載「歌い手の脳味噌から」廣澤敦子(2024.3.10公演)

  • 2024.3.5 マネジメント

(3月9日最終更新)

「歌曲」を演奏活動の柱にすえるメゾ・ソプラノ廣澤敦子が、年に一度、趣向を凝らしたプログラムで行うリサイタル「歌物語」シリーズ。
18回目のタイトルは「土の詩(うた)」。

その各曲について、本番間近の【歌い手の頭の中】を集中掲載!
廣澤敦子のnote(こちらは稀に更新)

目次

公演情報

[大阪市助成公演]
廣澤敦子メゾソプラノリサイタル 歌物語 第十八巻
“土の詩(うた)”
公演日:2023.03.10(日)14時開演
会場 あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール(大阪)

◆出演
廣澤敦子(メゾソプラノ)
辺見亜矢(フルート)
近藤浩志(チェロ)
中村展子(ピアノ)
◆オンライン(チケットレス)のご購入はこちら

以下、長文です!じっくりお読みください★

前書きに変えてー 歌曲はつらいよ

と、思うのが、英会話レッスンで、初めて習う先生に自己紹介で「自分がクラシックの声楽家であり、歌曲を歌っている」という説明をする時。

日本でもなかなか分かってもらいにくいものです。中学校で習うシューベルトの「魔王」を例に出せばかなりの人は分かってくれるけど、あの歌はちょっと特殊。

しかしこれが外国人となると本当に分かってもらえない。魔王の例も役に立たない。もちろん私の英語力のせいもあるのですが。

先月東京に行った時、用が済んで時間が出来たので、飛び込みで英会話スクールの銀座校に行ってみました。チェーンのどのスクールでも受講出来るのです。

たまたま予約した先生は音大のピアノ科を出たカナダ人。しかも、私がArt songs(英語で歌曲)と言うと、ぼくLieder (ドイツ語で歌曲)好きなんだよ、と言ってくれた😍 なかなかないです、こんな出会い。

これは!と思って、普段他の先生に歌曲って説明しても分かってもらえない。なんて言えばいいのか、と、愚痴を交えた質問をしてみた。

なかなかオモロイ人で、
説明したところで馬の耳に念仏だけどね、ヤツらに分かるもんか、みたいなことを言いながら、こうかなあ、と文を作ってくれたのが(主にドイツ歌曲の説明として)

I am a classically trained singer. I sing Lieder. These are German language songs in an artistic or poetic style. It is similar to opera singing. Except it is without any acting..

どっちにしろオペラを引き合いに出すのがいいだろうねえ…と、かなり役に立つレッスンでした。

地道に英会話スクールで歌曲の啓蒙活動を続ける私です。

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「パプア島土蛮の歌」(芥川也寸志作曲)

コンプライアンスもなにもあったもんじゃないタイトル。昔は土人という言葉もありましたね。
私が持っている童謡の本には「人喰い土人のサムサム(谷川俊太郎・林光)」なんてのもあります💦YouTubeにありますからどんな歌か聴いてみてください。
パプア島土蛮の歌は、芥川也寸志の若き日の名曲です。
芥川也寸志といえばオスティナート。つまりひとつのリズム、音型を執拗に繰り返すのです。伊福部昭(ゴジラの音楽の作者)の影響もかなりあるようです。
それが土俗的なイメージと結びつくのは必然的でしょうね。
1.Introduction(ピアノ独奏)
2.死霊の歌
3.歓喜の歌
いちおう現地の言葉を使っているのですが、意味はなさないそうです。
私の持っている解説書には、《ことば》に対しての感受性が鋭敏でありすぎたのかもしれない、とあります。お父様は芥川龍之介ですものね。すぐれた詩は《ことば》の中に世界を完結させているのだから、どうして音楽が必要なのだ、ということ。
だから歌曲はとても少ないし、このパプアみたいに言葉に意味をもたない歌を作ったり。
芥川也寸志といえば、私にとっては黒柳徹子さんとされてたNHKの音楽番組の素敵なおじさんでした。また幼児教育を教えるようになってからは童謡「ことりのうた」の作曲者として。道理で伴奏がかっこいいはずだ!と、膝を打ったものです。

マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」から(1)
Des Antonius von Padua Fishpredigt 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス

※演奏順とは異なります

今日はマーラーの歌曲集「子供の不思議な角笛」から。

子供の不思議な角笛とは、同名の民謡詩集に作曲された歌曲集で、10曲からなります。この「魚に説教するパドヴァのアントニウス」は6曲目。

こんな詩です。

アントニウスが説教しに行くと教会は空っぽ
そこで彼は川へ行き魚にお説教
魚たちはおひれをパチャパチャさせて陽の光でキラキラしてる

子持ちの鯉がやってきた
口をパックリ開けて熱心に聴いている。

こんな説教は聴いたことがない
魚たちは気に入った!

とんがった口のカワカマス、いつも喧嘩ばかりしてる奴らだ
そいつらも急いでお説教を聴きにやってきた
あの妄想癖のある、いつも断食ばかりしてる奴ら
つまり干しダラのことなんだがそいつらも姿を現した

こんな説教は聴いたことがない
干しダラは気に入った!

上等のウナギにチョウザメ、やんごとない方々が召し上がるやつだ
そいつらもすまして説教を聴く
カニもカメも普段はのろまだが
水底から急いで上がってくる

こんな説教は聴いたことがない
カニは気に入った!

でっかいのもちっさいのも
やんごとないのも、下衆なのも
分別ありげに頭を上げている
神のご意志で説教を聴いている

説教が終わった
皆はくるりと背を向けた
カワカマスはやっぱり泥棒だし
ウナギは浮気性

説教は気に入ったがみんな元通り

カニは横歩き
干し鱈はデブ
鯉は大喰らい
説教なんて忘れてしまった

説教は気に入ったんだけど
みんな元通り

パドゥヴァの聖アントニウスとは

パドヴァの聖アントニウスというのはWikipediaによると「カトリック教会で、失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物の聖人とされている」ということです。パドヴァというのはイタリアの地名ですが、他にも聖アントニウスという方がいるので区別するために「パドヴァの」とつけるようです。
下はイタリアのヴェネツィアで撮った写真。たまたま撮ってたのがこんなところで役に立ちました。街角や、もちろん教会でもこんなふうに祀られてる(っていうの?)くらい親しまれている聖人のようですね。失せ物の聖人というくらいだから、失くしものがあったら願掛けするのかな。

Photo ヴェネツィアの街角で

ヴェネツィアの街角で

Photo ヴェネツィア・フラーリ教会

ヴェネツィア・フラーリ教会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パドヴァのアントニウスはなぜ魚に説教したか

さて、このアントニウスさんは説教、説法がうまい方だったそうです。
そしてこんなお話があります。

アドリア海に面したリミニという街はキリスト教の異端者の温床でした。
そのリミニにアントニウスが訪れたのですが、街の指導者は彼を無視するように人々に命じており、教会は空っぽ、人々も無視。

そこで彼はアドリア海に注ぐマレッキア川の河口に来て、人にではなく魚に語りかけたのです。すると、なんと何千匹もの魚がきれいに一列に並び、彼の言葉を一つ一つ聞こうとしているかのように、水面に頭を突き出したではありませんか!

魚に説教

チョウザメにも説教

この奇跡を見たリミニの人々はアントニウスの話を聞くために集まりました。  彼らはアントニウスの言葉と回心への呼びかけに感動し、教会に戻ったのです。

それを知るとこの詩がただのシュールで滑稽な詩ではないということがわかります。こういうお話に基づいていたんですねえ。

ただね、この詩の後半。それがこの詩の本領じゃないでしょうか。
「説教が終わった途端、魚たちはくるりと背を向けて、説教なんて全部忘れてしまった。みんな元通り、説教を聴く前と何も変わらない。」

魚とは、つまり私たち人間ということで、これは強烈な風刺。
馬の耳に念仏、豚に真珠、猫に小判、犬に論語、そして魚に説教。

さてマーラーの歌曲
ニ短調3/8拍子「のんきに、ユーモアをもって」
(私はハ短調で歌います。)
そう、この曲はなんともユーモラスなんです。歌詞がなくとも。
私はオケ版ではなく、ピアノ版で演奏しますので、オケのことは省略しますが、まるでのっそりと這い上がってくる亀のような左手から始まり、なんともおかしみのある右手メロディーが始まります。ずっと動き続ける右手はまるでヌルヌルしたウナギのよう。

しかし歌詞にウナギが出てくる部分では伴奏は美しいんですよ。ト長調に転調します。私はここにくるといつもスーパーマリオの水中のBGMを思い出してしまうんですが。

そうそう「こんな説教は聴いたことがない!気に入った!」という部分は必ず長調です。それがまたマンガチックで面白い。

そして説教が終わって魚たちが背を向ける場面。新しい伴奏型が始まります。左手がオクターブでドコドコドコと。それが魚たちが一斉に帰っていくようで。前半は一種類ずつ現れる感じだったのが、帰りは一斉ですよ。知らんけど。

そして特筆すべきは後奏。
シューマンの詩人の恋の第九曲「あれはフルートとヴァイオリン」と同じなんです。もちろんシューマンが先ですよ。だからマーラーがそのメロディーをパク …いや使ったわけ。シューマンではではかつての恋人の婚礼の祝いに出くわしてしまった若者がその婚礼の音楽を耳にしながらヘナヘナとくずおれてしまうような描写。それと同じなんですよね。マーラーの意図はなんなんでしょうね。

魚が象徴するもの

この詩に登場する魚類は
鯉、カワカマス、干しタラ、うなぎ、チョウザメ、カニ、カメなんですが、
辞書の説明をよくよく最後まで見ると
鯉=馬鹿者
カワカマス=若者
干しタラ=うすのろ
カニ=スリ
とあるではありませんか。今まで何度か歌ったことのある曲ですが、これは大発見でした。

私はこれまでこの詩は、アントニウスが魚に説教するということ自体、すでにシュール、滑稽だと思っていたのですが、そこはカトリック信者さんには周知の事実というわけで面白いところじゃないんですね。それより面白いのはそれぞれの魚の描写、そして裏の意味(鯉=馬鹿者etc.)を知るともっと面白い。それから最後の説教は効かなかったというくだり。
それから私が歌っていて好きなのは詩が韻を踏んでいるというよりほとんどダジャレの域になっているところ。詩のリズムに口が喜んでいる。これは日本語にすると全く表せないから残念。

マーラーの指示通り、ユーモアを持って歌いたい曲です。

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楽譜付きのYoutubeはこちらから。

マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」から(2)
Wo die schönen Trompeten blasen 美しいトランペットが鳴るところ

※演奏順とは異なります

マーラーの歌曲集「子供の不思議な角笛」は大きく分けると
・レントラーなど牧歌的なリズムに乗った比較的素朴な内容のもの
・皮肉、風刺が効いたもの、滑稽なもの
・ミリタリー調のリズムを使った兵士にまつわる詩
の三つになるかと思います。

Wo die schönen Trompeten blasen、「美しいトランペットが鳴るところ」は、ひとつ目の牧歌調と、三つ目のミリタリー調が組み合わされた曲。

若い男と女、そして語り手からなる詩。
実はマーラーは「角笛」のふたつの詩を切り貼りして歌詞を作っています。そして「その時遠くでナイチンゲールが鳴き出した」というのは原詩にはなく、マーラーの創作。

この詩には
・戦地へ行く兵士が恋人のもとを訪れる。
・戦死した兵士の霊が恋人のもとを訪れる。

この二つの解釈があるのですが、どちらが正解というより、マーラーの夢かうつつか、な音楽に包み込んで曖昧にしておくのがいいようです。

男が歌う部分は三カ所あるのですが、初めの二つが牧歌調というのはなんとも言えない優しさ、愛情を感じさせますね。

マーラーが二つの詩を組み合わせ、曲をつけたことで原詩では読み取れない美しく悲しいドラマが生まれたのだと思います。

「角笛」の中でいちばん好きな曲。
学生時代、N響アワーかなんだったかで「角笛」をやっていたのです。
そこで聴いて心奪われた曲。歌っていたのはクリスタ・ルードヴィヒでした。

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マーラー 歌曲集「子供の不思議な角笛」から(3)
Lob den hohen Verstandes 高い知性を誉める歌

魚に説教するアントニウスと並んで、皮肉、風刺、滑稽がキーワードとなる歌です。

むかしむかし、とある深い谷間で
カッコウとナイチンゲールが
歌のコンテストをすることになった。
名曲を一曲歌ってうまく歌えた方が勝ち、名誉ある賞を得ることにした。

カッコウは言った
「君さえよければだけど、もう審査員は選んであるんだ。」       
そしてロバを審査員に指名した。

「だって、彼は大きな耳が二つあるからとってもよく聴くことが出来るし、
良し悪しをよく知っているからね。」

ふたりは審査員のもとに飛んで行き事の次第を説明した。
ロバは、では歌ってみろ、とのたまった。

ナイチンゲールはとても美しく歌った!

ロバは言った
「君の歌を聴いているとワケが分からなくなってくる……イーヤー! イーヤー! 難しすぎる!」

かっこうはすかさず歌い始めた
3度、4度、5度の音程もバッチリ
これがロバのお気に召し、彼は言った。
「待て待て。それでは成績発表じゃ。」

「ナイチンゲールよ、君は良く歌った!
だがカッコウよ、お前は讃美歌をうまく歌った!
拍子も正確に保ち続けた!
私のこの高い知性にもとづいて言うならば
これは一国全体程の価値があると言えよう
カッコウよ、お前の勝ちじゃ!」

カッコー! カッコー! イーヤー!

さて、この歌の何が皮肉で風刺で滑稽なのか。
まず前提を知らなければなりません。

独和辞典を調べると、
ロバ = ばか と出てきます。
カッコウ
ein Kuckuck unter Nachtigallen
ナイチンゲールの中のカッコウ(玄人の中に混じった素人)
というのが出てきますし、また英和辞典を見ると、カッコーは単調な鳴き声を繰り返すことから、キ◉ガイという意味があります。
ナイチンゲールは美声、歌が上手いという例えによく使われます。
日本でも「あなたの声はウグイスのようだ」とか「ウグイス嬢」という表現がありますね。ナイチンゲールはウグイスと訳されることもありますが、全くの別物で、日本には生息しない鳥です。

つまり
美声の代名詞のようなナイチンゲールと、〇〇の一つ覚えのようにカッコウとしか鳴けないカッコウが歌で競い合い。そしてその審査をロバ(ばか)がしたら、カッコウが勝ってしまったというお話。

この歌の何が皮肉で風刺で滑稽なのか、お分かりいただけましたね。これを人間界に当てはめてみてください。

さて、この歌の中に三回出てくる「イーヤー!」これは原詩にはないので、マーラーが付け加えたようです。
これはロバの鳴き声です。ロバも日本ではあまり馴染みのない動物ですよね。「おはようこどもショー」にロバくんというキャラクターはいましたし、私は子供の頃奈良ドリームランドでロバに乗ったことはあるんですが、なんというか童話の中に出てくるキャラクター的な扱いでしかなくないですか?日本の生活には密着していないというか。

で、ロバの鳴き声、これがなかなか強烈で、英語だとヒーハー!ともいうようですし、ドイツではイーヤー!とか、イーヨー! そういえば、くまのプーさんに出てくるロバのぬいぐるみの名前はイーヨーですね。

このお三方、音楽ではどう表現されているかというと、まずカッコーは前奏で早速出てきます。その後もちょくちょく顔を出します。

カッコー!カッコー!

ナイチンゲールはピアノで美しく。カッコーに対して長いフレーズ。こっそり左手でカッコウが鳴いているような気もします。

ロバは…..

イーヤー!イーヤー!奇声を発するレベルです(笑)

この歌、言葉も多いし、テクニック的にも大変で、でも面白いから歌ってみたくて、若い頃この歌を十八番にしていたワルター・ベリーの講習会に持って行きました。歌うのに必死でレッスンに値しなかったと思うんですが(苦笑)教えてくださったのは顔芸。ここはこんな顔で!みたいな。必死な顔してたんでしょうねえ。
楽譜に書き込んであります。このほかにも何ヶ所か。大事な思い出です。

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ラヴェル作曲 マダガスカル島民の歌

昔、松下悦子さんのリサイタルで聴いて衝撃を受け、それから何十年も気になってた曲。昨年、日本シューベルト協会演奏会の楽屋で松下さんに愛の告白をするかのようにその話をしました。驚きつつ、喜んでくださいました。

フルートとチェロ、ピアノ、そして歌、という編成です。要するに歌つき室内楽。
こういう編成で歌うのは初めてだし、指揮者がいるわけでもないのでちょっとびびってたんですが、フッと思ったんですよね。私はアンサンブルの人間なんだから、タローで耳を使うように耳を使えばいいだけやん。と。それをイメージして練習したら少し耳が開いてきたようです。
フルートは愛知から辺見亜矢さん。これまで何度もご一緒してきました。
チェロは、大フィルの近藤浩志さん。大フィルをご存知の方ならあのロン毛のヒゲのチェロの人、で分かりますね。

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3/9追記 ラヴェル作曲 マダガスカル島民の歌

これが演奏したくてタイトルを「土の詩」に変えたのです。
チラシもそのイメージ。
詩人パルニー(1753-1814)はマダガスカル生まれのフランス人です。フランスで教育を受けた人ではありますが、幼少時代はマダガスカルの奴隷、召使から影響を受けています。
対してパリジャンのラヴェル(1875-1937)はマダガスカルに行ったことはありません。また、詩人とも生きた時代が違うので接点はありません。
この曲は
・ナアンドーヴ (女性の名前)
・白い奴らに気をつけろ 
(アウアというタイトルのことも多い)
・心地よいのは
の三曲からなっています。
1曲目と3曲目はあまりにもエロチックな南国ムード、と言えばいいでしょうか。3曲目ではチェロに太鼓のような効果を持たせているのも想像を掻き立てます。
ところが2曲目は白人に侵略されるマダガスカルの人々の叫び。
パルニーによる強い反植民地主義的メッセージが込められているし、ラヴェルによって付けられた音楽は暴力的と言えるほどのものです。初演した際、フランスはモロッコと戦争中で、思わず席を立ってこの曲への抗議を表明した人もいたのだそう。
なぜこの曲をラヴェルはエロティックな二曲で挟んだのだろうと思います。
ラヴェルの傑作として取り上げたかったので、特別な政治的意図を持って歌うのではありません。ただ特に今のご時世、世界平和については意識せざるを得ませんね。自由に安全に生きる難しさ。
あと、日本はよくポルトガルやオランダの植民地にならなかったことだなあと、そちらの歴史には興味が湧きます。
先日辞めた英会話スクールで私が好きだった先生は、南アフリカ出身の女性、アメリカの若い黒人女性、そしてアメリカの白人男性。
白人男性の先生とはよく差別について語り合いました。アメリカでのアジア人の扱われ方とか。そして自分が白人であることの特権(悪い意味で)も自覚していてそういう話を聞くのは興味深かったです。また黒人女性の先生は差別的な表現にものすごく敏感で、その言葉はこう言い換える方がいい、とよく注意されたし、日本で「ちびくろさんぼ」が読まれていることについてどう思うか、などと議論をふっかけられたこともありました。
知識としては分からない、白人と黒人の溝、感じ方の違いのほんの一端ですが知る機会があったのはよかったと思っています。
歌とピアノ、チェロ、フルートによる編成、楽器の伴奏がついた歌、ではなく、室内楽です。楽器の人たちに提案される楽譜の見方はとかく詩に囚われがちな私の視野を広げてくれますし、それがまた詩と結びつく、という面白さを感じます。

宮沢賢治三章  山田一雄(1912〜1991)作曲

指揮者として有名なヤマカズ、山田一雄さんの作曲です。

指揮者のヤマカズさんが作曲もした、のではなく、作曲家の山田一雄(夏精)がのちに指揮者になった、のはご存知でしょうか。

1曲目 高原

海だべがど おら おもたれば

やつぱり光る山だたぢやい

ホウ

髪毛 風吹けば

鹿(しし)踊りだぢやい

岩手県花巻の方言で書かれています。

山田一雄が東京音楽学校を卒業した年、若干23歳で書いた曲ということに驚かされます。わずか2ページの中に岩手の土と風の匂いを閉じ込めた、果てしない広がりを持つ歌、と言えると思います。

テクニック的なことでちょっとホイツ先生にもレッスンしていただいたんですが、えらく気に入っておられました。

2曲目 市場帰り

耳をとらえて離さない、エスニックな音階、響き。

沖縄音階に似た感じ。間奏に突如ガムランの響き。

FBFには指揮者のヤマカズさんとご一緒した方もいらっしゃると思いますが、この曲聴いてみてほしい。

3曲目 風の又三郎

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

「風の又三郎」の冒頭に出てくるこの詩をモチーフに作られた曲。

「暗く心に泣きながら」と楽譜に書いてあります。私が思ってた詩のイメージとは違うのですが、ヤマカズさんはそのように感じられたのですね。

指揮者のヤマカズさんはドイツ物のイメージですが、作曲はフランス的、ラテン的。

作曲家としては橋本國彦の作風を受け継いでいると言われています。

二十代の頃、この歌曲集にハマりました。なんてかっこいい音!

久しぶりに歌うと暗譜やり直しなのはなぜ?

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日常の中の信仰

リサイタルで間宮芳生編曲による日本民謡を何曲か歌おうと思ったのですが、なにかご陽気なものをひとつ、と、入れたのが「早念仏と狂い」(岩手県民謡)

もともとは歌単体で歌われるのではなく、太鼓や踊りによる郷土芸能のようです。この間宮作品はもちろんピアノと歌によるもの。

早念仏と狂いは、前半の「早念仏」後半の「狂い」という二つの部分からなっています。

前半の早念仏は、全然速くない(笑)

な〜む〜あ〜み〜だ〜♪と、のったらくったらお念仏を。

後半の「狂い」

は、たとえば連獅子の紅白の毛を振り回すところを「獅子の狂い」というように、激しく、速いパート。狂ってるわけではありません。太鼓を叩く「デンヅクデンヅク」という言葉をひたすら繰り返します。

そういう土俗的とも言える歌パートに、現代音楽的なピアノが絡むのです。

今、必死でこれを覚えているのですが(とにかく覚えにくい)ひたすらブツブツやっていると、子どもの時に見た「拝み屋」さんを思い出すんです。

拝み屋って、分かりますか?個人営業の祈祷師さんて感じでしょうか。

祖母は昔、商売をしていたので家にはお稲荷さんが祀ってあったし、台所にはかまどの神様である三宝さんが祀ってありました。そして毎月何日かになると、「先生」なるお婆さんが拝みに来るんです。

その他にも祖父の命日には毎月お坊さんも拝みに来るし、祖母とは毎月伏見稲荷に参拝するだとか、神仏が身近にあった子ども時代でした。

「早念仏と狂い」を練習しているとその拝み屋さんがなにやらシャンシャンやって拝んでた様子が思い出されるんですよね。全然違うんだけど同じにおいがする。

オランダの先生に宗教曲のレッスンを受けたり話したりしていると、彼にとってキリスト教は宗教というより生活の一部である(信仰深いという意味ではない)ということをよく感じます。

それが私にとっては拝み屋さんや、面白い話をしてくれるお坊さんや、美味しいものを食べたりオモチャを買ってもらうのが目当てでついて行く伏見稲荷だったり、自分では宗教とは自覚せずに生活に入り込んでいたあれらの経験だったのかなと思います。

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日常の中の信仰②

今回プログラムの最後に歌うのは、千原英喜作曲

「アヴェ マリス ステッラ 花も花なれ、人も人なれ – 細川ガラシャ夫人幻想」

という長いタイトルの歌です。

①の投稿のように、言うなれば大阪の下町らしい雑多な宗教の記憶が私の子ども時代の土台にありますが、その雑多にもうひとつ加えるとしたら、キリスト教。カトリック。

ひとつ上の姉がカトリックの幼稚園(2年保育)に行ったんです。

で、なにやら私の知らない言葉をうちに持ち込むんです。

イエスさま、マリアさま、クラスはテレジア組、お祈り、クリスマスには生誕劇、きわめつきはマリア様をたたえる歌。カトリックの聖歌らしい感じのメロディで、今なら「なるほどね」と思うのですが、当時はそのメロディ自体が怖かった。

姉が年少さんということは、私は三歳くらいのはずですが、その時の気持ちを覚えています。

「私には無理だ!」

母は同じ幼稚園に行かせたかったようですが、私は拒否したどころか、

「あっちゃんは幼稚園から大学まで公立に行くの!」

と言ったらしい。謎。大学の意味も知らなければ公立の意味も知らない3歳児が。で、将来本当にそうなるわけですが。

母も私に聞かずにそのカトリックの幼稚園にほりこめばよかったのに、そこでなぜか私の意思は尊重されたようです💦

なので私は一年保育の公立の幼稚園へ。姉と同じ幼稚園ならクリスチャンにはならずとも感じ方がまた違ったでしょうね。でも、あのマリアさまの歌(今でも歌えるw)も、マリオという名前の外国人の園長先生(今思えば神父さまでしょう)幼稚園入り口のマリア様….など、なんでこんなに覚えているんだろうというくらい、覚えています。

そんな私の記憶の集大成がこの歌の中にはあるのかも

Ave maris stella 、あべまりすてら、般若心経、そんなものが一曲の中に混在する歌です。

そこに細川ガラシャの辞世の句が美しく絡む。

細川ガラシャに思いを馳せるというよりは、千原英喜作品らしい、時空を自由に超える作品の真骨頂でしょう。

土の詩、これが私の産土(うぶすな)かな。

Fin.

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